2027 大河ドラマ決定! 小栗忠順の秘話、シンクロレポートより
未来わくわく研レポートでは、"一万円札の顔"となった渋沢栄一、そして大隈重信、前島密など、明治新政府の改正掛で活躍した人物を取り上げていましたが、たまたま小栗忠順の秘話についても言及していました。そして最近になり、2027年のNHK大河ドラマに、小栗忠順が決まったことから、ここでは未来わくわく研でまとめていたレポートにおいて、小栗忠順についてまとめている部分を紹介させていただき、小栗忠順の人物像についての学び、気づきをシェアさせていただければと思います。
ここに一部をご紹介させていただきます。よろしくお願いいたします。
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明治国家の父の一人、小栗忠順との心温まる、ある関係
前島密と深い付き合いのあった大隈重信夫妻の親戚には、小栗忠順(小栗上野介)がいた。大隈の妻である綾子は小栗の親族であり、幼少時には兄の三枝守富とともに小栗家に同居していた時期があった。
まず、小栗忠順の簡単な紹介をして、その後、前島密との接点について述べてみたい。
一般的に、日本の近代化は、明治以降に進められたといった認識があるようであるが、明治維新より以前に、江戸幕府は近代化を進めており、その中心的人物が小栗忠順であった。小栗は多大な功績がありながら、最期は悲運というべきか、官軍、東征軍により罪の嫌疑をかけられ、側近とともに斬首されてしまった。明治に入り、小栗に言及することはタブーとされたが、しだいに小栗の真実が知られるようになってきた。
小栗は安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国した。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行った。
鳥羽・伏見の戦いの後、徳川慶喜の恭順に反対し、薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868年)に罷免されて領地である上野国群馬郡権田村(群馬県高崎市倉渕町権田)に隠遁。同年閏4月、薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ、自身の養子をその証人として差し出したが逮捕され、翌日、斬首。逮捕の理由としては、大砲2門・小銃20挺の所持と農兵の訓練が理由であるとする説や、勘定奉行時代に徳川家の大金を隠蔽したという説(徳川埋蔵金説)などが挙げられるが、これらの説を裏付ける根拠は現在まで出てきていない。
小栗は日米修好通商条約の調印等のため、安政7年(1860年)、遣米使節目付(監察)として、正使の新見正興が乗船するポーハタン号で渡米する。2か月の船旅の後、サンフランシスコに到着。ワシントンでは、ホワイトハウスでブキャナン大統領とも会って、歓迎されている。残念なことに、日本ではその後、明治維新が、米国では南北戦争となり、継続した友好の流れがとだえてしまったが、その後の日米関係の歴史を考えると、そのまま関係が続いていたら、相互の友好発展は大きく前進していたと思われ、残念な気がする。当時の訪問は、岩倉使節団(明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで)よりも、11年くらい前に行われていたとは、驚きである。江戸幕府は、尊王攘夷の風が吹き荒れる中、難しい判断をしていたが、実際的に、米国や欧州フランス等へ使節団を派遣して開国へ向けたアクションをしていたのである。
以下の写真は、日米修好通商条約批准のときのものである。




米国への訪問では、小栗忠順もいたが、製鉄工場等の見学で、文化の格差を痛感し、そのことが、横須賀造船所の建設へと進めることになった。大隈は「明治の近代化はほとんど小栗上野介(忠順)の構想の模倣に過ぎない」と語り、福沢諭吉(1835~1901)も「 鞠きっ躬きゅう尽じん瘁すい (国のために命をかけて尽くすこと)の人」と小栗をたたえている。
のちに、明治政府中心の歴史観が薄まると小栗の評価は見直され、大隈重信や東郷平八郎からは幕府側から近代化政策を行った人として評価されている。司馬遼太郎は小栗を「明治国家の父の一人」と記している。
明治45年(1912年)7月、東郷平八郎は自宅に小栗貞雄と息子の又一を招き、「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい」と礼を述べた後、仁義禮智信としたためた書を又一に贈っている。三井の中興の祖といわれる三野村利左衛門は、「もし先主小栗をして今日にあらしめ、財政の要路に立たしめたならば、国家の財政を利益したること測り知る可からざるものがあったであろう。余の為す所の如きは、先主よりこれを見れば、児戯に過ぎざるのみ」と言っている。三野村利左衛門は、かつて小栗家で中間を務めた。三井組に入ったのは小栗との交流があったからこそである。慶応4年(1868年)以降に三井組が新政府へ資金援助を始めたのは、小栗の助言によるとする説もある。

三野村利左衛門(1821~1877)
さて、前島と小栗の関係であるが、
小栗忠順が斬首されたとき、その悲運の前に、身重の道子夫人達は、村人の中島三左衛門らに守られ会津まで逃避行を遂げ、第一子である遺児国子を出産。会津から戻った後、国子は三野村利左衛門、彼の死後は大隈重信(妻綾子が小栗の従妹)に引き取られ、年頃になったころ、大隈の勧めにより矢野龍渓の弟・貞雄を婿に迎えて前島密が媒酌人を務めた。かくして、小栗家は再興されることになった。
前島はかつて、1861(万延2/文久元)年のロシア軍艦対馬占領事件のき、処理のため、対馬へ外国奉行組頭・向山栄五郎に随行しており、一時期、小栗とは同様な仕事をしていた。
小栗の近代化へ向けた構想の中には郵便に関するものなどもあり、その意味でもふたりはつながりが感じられる。日本の未来を真剣に考え、開国の方向で動いたふたりは、大隈夫妻ともつながって、それぞれ働きは異なれど何かがつながっているような気がする。その意味でも、前島が媒酌の労をとったのは、小栗家にとつても、また親戚関係にとっても、何かほっとするものがあり、天国にいる小栗忠順も、当時、笑顔で見守っていたような気がする。
筆者は、高崎市のある群馬県の境町というところに生を受けた。大学生時代、高崎市の友人宅を訪問したことがあったが、そのとき、ある事件があり、私は一目散に、後ろを顧みず、高崎市から離れたことがあった。今にして思えば、身重の道子夫人達のような切ない気持ちを感じるがごとくの事件だったような気がする。。(敬称略)
■参考文献
『前島密=創業の精神と業績』 (井上 卓朗)
『前島密の構想力』 (加来耕三)
(参考情報:郵政博物館、日本郵政、通信文化協会、wikipedia、その他 )
(出典)
『地球新時代を先どる、シンクロニシティと量子もつれの研究 -黒船とUFO! 明治新政府の改正掛、精鋭達の先見力に学べ- 』
https://www.aqu1.com/synchro2024/
『地球新時代を先どるシンクロニシティと量子もつれの研究』www.aqu1.com
ご参考になれば幸いです。(^^)
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